夏目漱石にとっての心理学
夏目漱石は、イギリスに行った後、東京帝国大学文科においての講義において、英文学を「心理学」によってまとめています。
「心理学」は1890年前後にドイツのヴィルヘルム・ヴントやアメリカのウィリアム・ジェームズによって創始されたもので、漱石が渡英したのは1900~1903年のため、登場した「心理学」を少しだけ引いた視点で出会ったようです。
特に漱石にとって影響が強かったとされるウィリアム・ジェームズの著作は、アメリカへの心理学の誕生と普及を起こした『心理学原理』(1890年)と、心理学の少しだけ視点を変えて捉えた『宗教的経験の諸相』(1902年)を帰国後ほぼ同時位に購入しています。
ただ、帰国後の東京帝国大学の講義をしているときは、ウィリアム・ジェームズも『文学論』において引用しているものの、1890年前後の心理学の著作を多く引用しまとめています。具体的には、認知や情緒などを要素ごとに分解しそれにともなう文学事例を引用し、その変化などを定義してさらに引用するという具合にです。 ですから、この頃の漱石にとっての心理学は英文学を研究する指針として心理学あったのではないのでしょうか。
しかし、1904年に東京帝国文科講師や第一高講師などをする窮屈さや家長としての役割を果たさなければならない窮屈さの慰安と解放を目指して、たまたま高浜虚子の勧めもあって書かれた『吾輩は猫である』が好評を得て、更には1906年には『坊ちゃん』なども連載していく内に作家として生きていく道を考え、1907年には講師を辞めて朝日新聞社員になり作家の道を歩むと、自分の小説の書く指針として「心理学」を考えるようになったようです。
1907年の依頼されて演説の嫌いな漱石が『文芸の哲学的基礎』という講演を行います。そこでは、特にウィリアム・ジェームズの「意識の流れ」の考えに近いような態度で、文芸の在り方を述べようとしています。それは論文『夏目漱石とウィリアム・ジェイムズ』(※1)によると「文学が成立する前提となる意識現象や存在論にまで遡って考察することによって、自然主義や浪漫主義といった通俗的な分類に代えて、個々の文学作品がもつ特性により一層即した分類と理解が可能になる」という目的のもと、ジェームズの「人間の意識を原始的で単純な観念に分離し、その連合や合成によって意識全体を解明しようとする立場を批判して、彼は全体として具体的な心の状態から出発する方法を提唱」のように、「意識の流れ」という考えから文芸の哲学的基礎を全体的に捉えています。
ただ、このときは文章全体を読む限り、ジェームズの説に細部までに立ち入っている訳ではないので、漱石の『文学論』の頃使った心理学的アプローチから新しく創作としてのアプローチとして考える際に、ジェームズの説に近くなり再評価し始めたというのが近いように感じます。
そのため、その講演の年の1907年後半にウィリアム・ジェームズの著作を精読している様子が記録から読み取れます(※2)。ここで『心理学原理』と『宗教的体験の諸相』を精読した痕跡が見出されるようです。またこの時期は漱石の鬱的傾向が再発して新聞記事の殺人事件ばかりを切り取ったりもした時期でもあり、推測ですが「作品を創造するための確たる根拠」を改めて模索したのではないのでしょうか。 またウィリアム・ジェームズの「意識の流れ」によって性格を形成する取捨選択した意識とそれを拠り所とする無意識により多様的に性格を捉えるという方法を、イプセンという作家の研究を通して具体的な作品での実現方法を考察しています。(※2)
その成果が1908年2月の講演『創作家の態度』にでており、意識の選択性という部分を強調して、『文学論』以来の細かく要素に分解して、意識の集合によって作られていくという態度から、細部を削ぎ落して全体から多様的にキャラクターの性格を描く方法を見出していくようになります。それはかつての否定というよりは創作の指針としての「心理学」を実際小説を書く中で経験していき、漱石の中で発展していた結果だと個人的には思っています。
その後、1908年に「抗夫」や「三四郎」によって実験的に実践されていき、晩期の名作の発展に繋がってゆくのだと思います。
夏目漱石の生涯1905-1910を中心に
1868年に生まれ、1884年に東大予備門に通う。東大予備門では共立学校出身の秋山真之・南方熊楠・正岡子規らのグループと成立舎グループで分かれていたようで、正岡子規と知り合うのは少し後になる。中村是公と共に1886年落第をしているが、そこから自活を決め是公と2畳の部屋で1年位同居し共に江東義塾の講師も行い予備門に通う。また是公の活躍で優勝したボート大会の商品でシェイクスピアのハムレットを漱石は貰う。
1895年、東京の嘉納治五郎が校長を務めていた東京の学校の講師を辞めて、愛媛県松山の中学校の講師になる。その際、結核でありながら日清戦争従軍記者を務めて様態が悪化した正岡子規が松山に療養にきていて、同じ宿を使い、子規の影響で俳句の実力をつける。
その後、1896年、熊本の第五高等学校の講師を勤め、俳句の質問をしてきた生徒・寺田寅彦とこの時から親交を持つ。俳諧では頭角を出す。
1900年、イギリス留学を命じられる。研究テーマは比較的自由に設定でき、漱石は英文学を体系的にまとめることを漠然と描き出す(英文学研究として独自性を出すためもある)。グレーブズ先生からシェイクスピアを学ぶ。イギリス留学の船は南方熊楠のイギリスからの帰国の船とすれ違ったとも言われる。ボーア戦争の雰囲気が漂っている。またソールズベリー内閣に交代し、ロシアの南下対策として海軍で多くの影響を与えた日本と手を結ぶことを検討しだす。またヴィクトリア女王が亡くなるときにも遭遇している。イベントごとをやや嫌う漱石だが、ヴィクトリア女王の葬儀は敬虔な態度で接したよう。その後、ドイツからイギリス王立研究所に赴くため来ていた池田菊苗と親交を持つ。池田とはラファエロ前派のロセッティの実家を訪れたりピアソンの『科学の文法』を紹介され、漱石自身も科学的な体系で文学をまとめることを考える。神経症が酷くなり、自転車療法なども行っている。これが原因で帰国する事になるが、研究目的は何とか形になる。大英博物館図書館などは本に書き込みができないため利用はしなかったようである。
1903年、帰国するとかつて森鷗外が最初の妻と離婚した際すんだこともある千駄木の住居に住む。そして、東京帝国大学文科の講師として、ラフガディオ・ハーンの後任として着任する。漱石の厳しい態度はハーンとは対照的で生徒から反発が起きたり、生徒が華厳の滝で自殺する事件が起きたり、隻腕の生徒を注意するエピソードもある。このときの講義が後に『文学論』として出版される。第一高等学校の講師も行い、そこの学生森田草平が漱石宅に来るようになる。またウィリアム・ジェームズの『心理学原理』『宗教的体験の諸相』を購入。
1904年、日露戦争が始まる。その頃、正岡子規の弟分・高浜虚子の勧めもあり、『吾輩は猫である』を執筆して好評を得て、虚子主宰の「ホトトギス」に連載する。漱石が小説を書いたのは、講師や家長としての窮屈さからであったため、当時主流であった自然主義などととはまるで別物の様式であったため、低徊趣味という新しい境地を生み出す。ただ英文学を心理学によって分析していた点からも色々とディティール的なものは漱石の中にあったのだろう。
1905年、ポーツマス条約が結ばれ日比谷焼き討ち事件が起こる。この時からビアホールが流行り、また反政府活動に対する風当たりも強くなる(平民社閉鎖)。漱石も参加した山川有朋の常磐会(椿山荘)では山縣・桂の主義者への警戒心が強まる。『吾輩は猫である』はそのような世相の中出版され、また『坊ちゃん』そのような世相の中構想される。明大講師もこの頃始めている。
1906年、漱石の宅に訪れる人が多いため仕事に支障をきたすため、「木曜会」という木曜に訪問を受け付けるようにする。森田草平は田舎にこの時は戻る。また西園寺内閣(原敬補佐)により社会民主党も受理される。
1907年、作家として歩むことを決め、講師を辞めて朝日新聞社に入る。4月には作家となった条件として講演を請われ『文芸の哲学的基礎』という講演を行う。このときから文学を分析するという方向から全体を通してどのように捉えるかという創作方面の方向から文学を考え、更に浪漫主義や自然主義などとは別方面のアプローチの仕方を真剣に考えだす。この考えが、ウィリアム・ジェームズの思想であると意識したようで『心理学原理』『宗教的経験の諸相』を精読する様子が見られる。更に文学的実線としてイプソンというスウェーデンの作家の分析を行う。またこの時期は神経症が悪化して殺人事件ばかりの新聞記事を切り抜く。『虞美人草』が書かれる。
1908年2月『創作家の態度』という講演を行い、そこではウィリアム・ジェームズの意識の選択という部分という面が強調される。前年から帰京していた森田草平が3月に森田草平らが主催する講座で平塚らいてうと知り合い、心中事件を起こす。これが森田のデビュー作となり『煤煙』となるが、漱石は事後処理に苦労する。森田は平塚の気持ちは理解しきれていなかった。『抗夫』『三四郎』などで意欲的な方法で恐らく心理学の知見を活かした表現を行う。
1909年、3月には石川啄木が漱石もいる朝日新聞社に校正係として入社。前年に上京し金田一京助の援助を受け暮らしており、北原白秋とも親交を持つ(「パンの会」というヨーロッパのセーヌ川やポート・レールやランボオなどをイメージした会などで。『蛇宗門に繋がる』)。また『煤煙』の連載などもあり森田草平も朝日新聞に入社している。6月にはロシアに生きインド洋で客死した二葉亭四迷の葬儀が行われ、漱石も出席。石川啄木は二葉亭四迷の全集の校訂を任されるとともに、家族が上京してきて床屋の二階に家を借りる(金田一京助とは京助が結婚した関係もありだんだん疎遠になる)。中村是公が満鉄総裁に就任することになり、漱石は朝鮮旅行に出る。このとき高峰譲吉の国産ウイスキーの構想の演説を聞く。
1910年、胃の調子が悪化し(『門』を描いたとき)長与胃腸病院に入院しつつも少し回復し、転地療養として8月に伊豆修繕寺に入院する。少し前の6月にはハレー彗星が接近し空気が薄くなるなどのうわさが流れる。修善寺にて大雨が降るとともに漱石の様態が悪化し吐血する。この頃亡くなったウィリアム・ジェームズの『多元的宇宙論』を読んで、特にジェームズのベルクソンに関する部分を面白く読む。その後の入院中、フランス語とドイツ語の勉強をしている。また翌年大逆事件の判決がでて、朝日新聞社において石川啄木や夏目漱石も注目したようである。
参考文献 ・『『坊ちゃん』の時代1-5』・関川夏央、谷口ジロー、1987 ・『夏目漱石 ウィリアム・ジェームズ受容の周辺』小倉育三、1989